少女は今まさに死なんとしていた。

降りしきる冷たい雨は容赦なく突き刺さり、少女の命を穿ち奪っていく。
泥水は少女の血を啜り、顔に触れる道石はひしひしと嘲るように笑う。
この街の全てが、少女の敵であった。


少女は孤独であった。
持たざる者には少々生き辛いこの街で、少女は一人、今日を生きんがために生きていた。
衛兵が、市民が、少女と同じ孤児たちが、石の壁や鉄の柵が、空と雲と風が、全てが少女に冷たい牙を剥いていた。
少女は言葉を閉ざし、心を閉ざし、眼も耳も閉ざしても、世界はなお少女を苛んだ。

少女は辛く惨めな明日を得るために、ひとり生きていた。
死ねば解き放たれる、ただそれだけの事を知らなかった。


今日はツイてなかった。
ゴミをひっくり返した所をあの良く太った料理長(おこりんぼう)に見つかって
ケーキ棒で思いっきり殴られた挙句、背中をばっさり斬りつけられた。

足首に噛み付いて何とか逃げてこれたものの、背中がひどく焼け付く。
痛い時のヌルヌルするもので目の前は真っ赤に染まって、なんだかふらふらする。
喉はカラカラに渇いているのに、身体はやけに寒い。

店から何百歩も離れてようやく、雨が降っている事に気が付いた。
雨に打たれている事に気付くと、背中の焼け付きはますますひどく、全身は震え始めた。
立っていられなくなり膝を折ると、そのまま前のめりに倒れてしまった。

どうしたのだろう? 身体に力が入らない。瞼も重くて開けていられないようだ。
身体の震えはいっかな収まらず、渇きは吐き気へ変わっている。
いつもしているように縮こまって眠りたいが、腕も脚も何処へ行ったのだろう。
ひしひしと雨音がやけに耳に煩わしくて、顔をしかめた。

――少女は今まさに死なんとしていた。


暗いうねりの中に浮かんでいる…そんな感覚をふと覚えた。
寒さも焼け付きも消えうせ、粘りつく浮遊感と吐き気だけを感じていた。
眼を開いているのか閉じているのかすら判らない。手も足も身体も…ここは何処だろう?
耳を澄ましても何も聞こえない…いや、微かに聞こえてくる。話し声…

ホントに生き返るのか?
手は尽くしたよ…後は、本人次第だね。
だって、もう4日もぴくりともしてねーぞ…?
そんな情けない声を出すものじゃないよ…こればかりは、なんともね。

誰の声だか、皆目見当が付かなかった。 聞こえてきたのはそれで終わりだった。

次に目を覚ました――ちょうどそんな感じだった――時、相変わらずうねりの中に居た。
ただ今度は浮かんでいるだけでなく、どこかへゆっくり漂っているような感じだった。
相変わらず身体はなかったが、吐き気はもう収まっていた。
耳を澄ませてみたが、今度はあの声は聞こえない…また、うねりに沈んだ。

三度目に目を覚ました時、うねりは光を帯びていた。
ゆらゆらと煌き、目の前で踊る光がなぜか懐かしいもののような気がして
その光に触れようと手を伸ばした――伸ばそうと思った時、ゆっくり浮かんでいく感覚に囚われた。

アウラ!アウラー! 目を開けたぞ!

耳元でがなられ、思わず身を竦める。また殴られる?
恐る恐る眼を開けるが、何も見えない…いや眩しすぎる。長い時間をかけて、ゆっくり瞼をこじ開けていく。
そこには見知らぬ2つの顔があった。

大丈夫? キミは10日間、ずっと寝ていたんだよ
全然動かねーから、このまま死ンじまうのかと思ったぜ

誰だろう…まだ殴られた覚えのない顔だけど。

覚えている? この家の前で、血まみれで倒れていた事

そうか、あの日…

よっぽどひどくやられたね…倒れたのが家の前で良かった。

逃げたと思ったのに…連れ戻されて、また殴られるんだ、きっと

オレが見つけてなかったら死んでたぞ、感謝しろよ!

逃げなきゃ…もう痛いのは嫌だ

体を起こそうと思ってみても、身体の方は何の返事もしない。
思いっきり力を入れてみた途端、特大のとげ虫が這ったような痛みを感じて
少女は思わず叫び声――声にはならなかったが――を上げた。

! だめ、まだ動いては…オリゼ、包帯と薬を
え、あ、お…おう

ヘンな匂いのものを嗅がされ、だるさと吐き気で動けなくなった…そしてまたしばらく寝た。


アウラ…まっすぐ長い銀髪に中性的で柔和な顔貌、特徴的な琥珀の双眸…
医者、という職らしい。少女は初め墓守との違いが判らなかった。
医者といっても免許があるわけでもない。書写や翻訳の仕事をしつつ、合間に人を診る程度。
「先生」と呼ぶのがしっくりくる、実際親しい者にはそう呼ばれている。
いつも傍に居る緑髪の少年――実は少女だったが――はオリゼ。
2人は街のやや外れに住んでいた。

ある雨の日、オリゼは家の前で行き倒れている少女を見つけた。
頭も背も血に汚れ、少女は明らかに死に瀕していた。
肌は白とも青ともつかず、瞳は固く閉ざされたまま、泥水に顔を半ば沈めて息すらしていない。
オリゼは慌てて少女を担ぎ、家へと運んだ。

7日間、少女は指先一つ動かさずじっと眠っていた。
あまりに動かないのでオリゼはたびたび少女が死んでいないか確かめなければならなかったが、
かいがいしい看護の甲斐あってか、8日目にはかすかに呻き声を上げた。
そして10日目、ようやく少女は眼を開けたのだった。

何度か目を覚ましては痛みに暴れ、薬で眠るという事を繰り返して、
少女はようやく落ち着いたようだ。
薬を溶かした水も――お気に召さないようだが――水差しから飲めるようになった。
ひどく強かった警戒心も、数日もするうちに和らいでいった。

が、少女はいつまで経っても喋らなかった。


なあ、オメー名前は?
…ねえの?
喋れねえンならさあ、文字書くとか…オレは読めねーけど
……なー何とか言えよー

何度となく問いかけても、少女は困ったような、悲しそうな顔で見返すばかり。
文字を薦めても、それもダメなようだ――これは別段珍しい事ではないが。

困ったね…怪我のせいか、元々なのかは判らないけれど
治ンねーのか?
さあ…原因も判らないし、なんともね…

2人につられて、少女は悲しそうに俯く。

何にしても、名前も判らないんじゃあね… …オリゼ
ン?
書棚から、あの本を持ってきて。
お、名前付けンだな。よっし!

オリゼが抱えてきたのは、分厚く古い本…辞典だった。
アウラは本を受け取り、ゆっくり少女に差し出した。

今から、この本でキミの名前を決めよう。
どこでも、好きなページを開いてごらん。それがキミの名前だ

少女は重い辞典をためつすがめつ、恐る恐る何頁かめくる。
ふと目に付いた挿絵は…見たこともない奇妙な、芋虫のような生き物だった。

…アユシェアイア。神話よりも古い時代に生きていた、今は物言わぬ生き物だ。
よし…今日からこれがキミの名前だ、アユシェアイア。

図鑑の上の珍妙な生き物は可愛くもなんともなかったが、
初めて貰った名前――罵りや嘲りでない、自分を表す言葉に、少女はなぜか嬉しくなった。

また悪趣味な名前付けンなあ…
そう? 可愛いと思うけど…ほら、アユシェも笑ってるし

笑う?
少女は触ってみて、自分の頬がほころんでいる事に気付いた。


アユシェアイア、初めての誕生日であった。