「ぐ、ぅ…っ」
額から流れ落ちる血を拭おうと腕を上げた拍子に、冷たい泥に膝から崩れ落ちる。
短く呻いて、俺は動けなくなった。
頭上を見上げると、ひどく細い月が、天上に引っかかって淡い燐光を放っていた。
『軟弱者め、これしきの傷で足元が覚束ぬか。
頭の上でウレイリスの震える声が響く。が、既に脚は石のように重く、全身は痛みに凍え、もはや立ち上がる力は無い。
深く暗い夜の森はひそひそと何事か囁きあっていたが、生き物の気配はもうない。
どうやら追手は撒けたようだ…緊張が解けると、いよいよ衰弱が身を支配する。
『立て! まだ約定は果たされておらぬ!』
身体が傾ぎ、とっさに手を衝いて支える。が、折れた腕に己を支える力など残っていない。
どしゃりと鈍い音を立ててまろび、そのまま坂を転げ落ちる。
「……あ、ぐ…」
頬を噛む砂利の感触がやけに不快で、俺は顔をしかめた。
もう指先一本動かせない。
森の先には揺らめく灯りが見える。
暖かそうな街の光は、まるで彼岸の彼方にあるように思えた。
辿り着けそうにないな、とぼんやり考えていた。
『どうした、それでも我が主か! 誓いを忘れたか!』
意識が遠のく。ひどい頭痛に堪えかねて目を瞑ると、自分の身体がどこまでも落ちていくような錯覚に囚われた。
『―あの時の言葉は、何だったのじゃ! 儂は…』
相棒の言葉も、途切れ途切れにしか聞こえなくなった。
自責と後悔の念で一杯だった心も、闇の底に掻き消えていくようだった。
『死ぬな! 死んでは、……死んでは、ならぬ……』
また、泣かせてしまったか…な…
寝汗を拭い、起き上がる。
「また、あの夢か…」
記憶を失くす以前の事だと、繰り返し見るようになってから気付いた。
窓の外には、満ちる事のない細い月が、怯えたように幽かに光っている。
『なんじゃ…喧しい』
眠そうな声が直接心に響いてくる。
もっとも、俺の方にはテレパシーなんて洒落た特技の持ち合わせは無いが。
「ああ…起こしちまったか」
『魔器が眠るわけがなかろうが、馬鹿者』
それにしては欠伸交じりだったな。
『また下らぬ過去の夢とやらであろ。よく飽きもせずに見られるものじゃな』
「はは、そうだな…覚えてもないのに」
夢の内容を事もなく言い当てる。きっと、同じ夢を見ていたのだろう。
この夢を見た夜は、いつも相棒は背中を――他人には見えないが――向けている。
相棒の背中は、色々な感情を語っていた。
憤り、安堵、悲哀、望郷、悔悟……ない交ぜになって滲んでいる。
何度目だろう。返事の判り切った質問をしてみた。
「なあ。」
『何じゃ』
「教えてはくれないのか?」
『何をじゃ』
「昔の話をさ」
『教えん』
「どうして?」
『お主には必要ない』
「それは俺が決める事だ」
『儂が教えんと言ったら教えん』
こうなったら梃子でも動かない。
小娘の――少なくともそう見える――くせに、なんとも"カタブツ"なもんだ。
ため息を一つ吐いて横になる。
「誓いって、何なんだ?」
『知らぬ』
「言葉って?」
『知らぬ』
「……」
『……』
「…あの時、泣いてたのか?」
『知らぬ!』
それきり、ウレイリスは黙ってしまった。
怒らせてしまったようだ。
可笑しさがこみ上げてきて、つい笑ってしまった。
「全く、まるで人間みたいだな」
背中がぴくりと震えたように見えた。
「…ま、今は過去の話どころじゃないか。」
「ヤマーダは放っておくと何をしだすか判らないし、ターシロは相変わらず姿が見えないし…」
『……』
「シルクハット野郎の行方も判らないし…ああ、来週は功勲会の警護もあるな」
『……』
「書類整理も溜まっているし… そういえば、新人はいつ来るんだか」
『お主の部下に送られてくる連中じゃ、どうせ揃いも揃って他所では扱えぬ曲せ者じゃろうて』
「…それは言ってくれるな」
俺の部隊には、一癖どころではない奴が多い…というより、まともな奴を探す方が難しい。
聖騎士団の"使えない連中"を集めた部隊――当然、部隊長は最高の変人だ!――という噂も、
ひょっとしたらあながち間違っても居ないのかも知れない。
もちろん、俺は変人じゃないが。
「アリシエラも、そろそろ剣術の方も上達してもらわないとな…天馬騎士団は弓一本でも通るんだろうか?」
『女好きの教官が教えても上達すまいよ』
「…誰が女好きだ。お前、いつも一緒に居るなら判るだろ」
『どうじゃかのう』
くつくつと笑って、少しの間、お互いに黙っていた。
それからようやく、相棒は幼い顔をこっちへ向けた。
『…お主には、
「? ああ、そりゃまあ…」
『ならばそれで十分であろ。それとも、過去に縋らんと生きては行けぬか?』
少し考えてから、答えた。
「……いいや」
手を伸ばし、相棒の聖痕を指でなぞる。
「俺には、頼れるものがあるからな」
巨大な黒曜石で出来た楯は、ひんやりと夜の冷気を湛えていた。
『……フン、使い手がいつまでたってもひよっ子では、宝の持ち腐れじゃ』
ウレイリスはそっぽを向いて、窓の外を見上げている。
月の光を映した楯表は、夜闇そのもののようだった。
星さえ無い夜空を仰ぎ見る。
いつの日か、天に22のアルカナを還す。
夜闇に星を取り戻す。
かつてそうであったように。
この聖痕に誓って。