――アズミ

んー?

兄ちゃんが居らんなっても泣きなや

? 兄ちゃんどっか行くん?

…行くねん。放っとかれんからな

そうなんや。いつ帰ってくるん?

そんなんエエから、早よ寝えや

いややー。まだ眠ないもん

そうか。ほなあとちょっとだけやで――

ふが

自分の寝息で目が覚めた。

…んん

周囲はまだ真っ暗だ。
頭を動かして窓を見やると、月明かりが薄く差し込んでいる。夜明けまでまだ当分先のようだと、ぼんやり考えた。

アズミの腹違いの兄チャトは、アズミがまだ5歳の時に家を出ていった。母を追っていったのだと言う。
アズミはチャトの母…つまり父の前妻のことをよく知らない。父も母も、アズミに話そうとはしなかった。
ただ、森人(エルフ)だったということは知っている。だから夢に出てくる兄の耳も、いつも尖っている。
10年以上前の記憶のはずなのに、夢ではまるで今日のことのように鮮明に思い出せる。

…はー、さむむ……

今日は珍しく、良く晴れているようだ。きっと外は霜だらけだろう。
隙間風に震え、アズミは隣で寝ている男の細い肩に頬を寄せる。

兄の夢を見るのは、決まって誰かと寝ている時だった。
どうしてそうなるのかは良く判らない。兄にそういった類の感情を抱いていたわけでもないし、もちろん何事かがあったわけでもない。
理由は判らないが、けれどもアズミは余り不思議に思わなかった。この事に気付いたときも、なんとなく納得できた。

兄さんが聞いたら怒るやろか…?

14の時、アズミは家を出た。奇しくも、兄が家を出たのと同じ歳だった。

乗っていた船が難破し、偶然島に流れ着いた学者は、そこで出会ったアズミに世界の広さを説いた。
未だ見ぬ世界に魅入られたアズミは、ほとんど喧嘩別れに、強引に島を出、大陸に渡った。

世界を見たいという理由が一番大きかったが、兄を探したいという思いも少なからずあった。
特徴は覚えているし、訪ね歩けば見つかるだろう…生まれ育った島しか知らないアズミは、大陸の広さを知らなかった。

…起きているのか?

んあ、起こしてもーた?

いや…また例の夢か?

からかうような口調で問われ、グゥと喉を鳴らす。
博識なこの男なら、何か意味でも教えてくれはしまいかと、この間、ついぽろっと漏らしてしまったのだ。
結局、散々ブラコンだの何だのと笑われただけだった。言うんじゃなかったとしみじみ後悔したものだ。

彼が夢の話に拘る理由を、アズミは知らなかった。

大陸は、島とは全く違っていた。見るもの全てが新しかった。
退屈な生活に飽きていた、年頃の少女の好奇心を、存分に満たしてくれた。
未知なるものは時に愛らしく、時には残酷であったりもしたが、アズミは戸惑いながらもそれらを受け入れていった。

そうしてほどなく、少女は大人になった。

…耳がな

ん?

丸くなり、男の胸に頭を乗せる。
暗くて今は見えないが、アズミはこの男の、色の濃い肌が好みだった。

耳がな、尖っとるん。上向きに、ツンって

……兄さんの話か?

夢では思い出せても、兄の顔立ちを他人に説明することは出来なかった。
起きている間、兄の顔はおぼろげで、まるで雲か霞のようだった。

だから、アズミが兄について言えたのは耳の事だけ。それが唯一の手がかりだった。

耳と言ってもな…減ったとはいえ、ハイデルランドにはまだエルフが多くいるし、

そーゆー凡百の耳とちゃうねん、なんちゅーかこう…

…こう?

しなやかとゆーか、柔らかそうとゆーか、肉厚とゆーか、歯ごたえよさそうとゆーか…

…。

言葉にすればするほど曖昧になっていく気がして、喋るのをやめた。
ただやめるのも癪に思って、男に口付けする。男の苦笑の気配がした。

んでも、会うたら絶対一目で判るん。絶対すぐ判る

それで?

それで…って?

会ったら、どうするんだ?

そりゃー…

別に、何か用事があるわけでもない。伝えたいことがあったわけでもない。
出会ったらどうするだろう。向こうはどうするだろう? 想像も付かない。

そもそも兄は、思うところがあるから家を出たのだ。
今更昔の家族に会ったところで、何とも思わない…悪くすれば、拒絶されるかもしれない。

…そりゃー、感激の再会が始まるに決まっとるやん! 『兄さーん!』『おお、アズミー!』 抱きゃー、みたいな

言いながら、男の胴に腕を回す。
男の体温は控えめに言っても低かったが、それでもこの寒い夜には、幸福感をもたらしてくれる。

迷惑そうな男をよそに、アズミはもう一度まどろみに落ちていった。

――おやすみな、アズミ

兄ちゃんが居らんなっても泣きなや

ちゃんと暖こうして寝えや――